日本でバーボンが受容されていった経緯と日本企業の世界展開
18世紀から19世紀にかけて、アメリカはケンタッキー州で生まれたバーボン。
独立戦争後、政府の課税を逃れるため、ケンタッキーやテネシーなどに移った蒸溜業者が、移った土地で栽培しやすいトウモロコシを使ったことで、バーボンの原料が確立していきました。
バーボンは日本では1980年代以降になって、需要が高まっていき、2000年代以降には日本企業がバーボン市場でも主要な地位を占めることとなります。
ここでは日本でバーボンが受容されていった経緯と日本企業がどう世界展開していったかについてご紹介したいと思います。
目次
バーボンとは何か
バーボンの名前はケンタッキー州バーボン郡バーボンから来ていますが、今ではケンタッキー州以外の州でもバーボンは製造されています。
1964年に制定されたアメリカの法律ではバーボンについて、原材料として51%以下のトウモロコシ、少量のライ麦、大麦麦芽を発酵させてもろみを蒸溜し、内側を焦がした新品のホワイトオーク樽の中で最低2年間熟成させたものと定めており、ほかにアルコール度数に関する条件もあり、その定義に則ったものはバーボンと呼ばれます。
バーボン誕生に関する三つの説
バーボンは18世紀から19世紀かけて誕生しました。
内側を焦がした樽によって独特の風味を出します。
しかしその手法の誕生の言われについては諸説入り乱れています。
主要な三つの説は以下の通りです。
第一は、ドジな桶屋が居眠りをしていて板を焦がしてしまい、その板で作った樽にウイスキーを詰めてしまったというもの。
第二は、ケチな桶屋が魚を入れた生臭い樽をウイスキー用に転用するために、焦がしてにおいを消したというもの。
第三は、納屋の下にウイスキーを詰めた樽を埋めて置いたら、納屋が火事になってしまい、その樽を掘り起こしたら、いい香りになっていたというもの。
西部劇に登場するのはバーボン?
バーボンには西部劇でカウボーイや荒くれた男たちが飲んでいる酒というイメージがあるかもしれません。
しかし開拓時代、男たちが飲んでいたのはラム酒をベースにした合成酒でした。
当時、バーボンは非常に高価なもので、浴びるように飲めるような代物ではありません。
いつしかバーボンには西部劇のイメージがついてしまったわけですね。
1970年代低調するバーボン人気
1965年頃、アメリカで消費された蒸留酒に占める比率は、スコッチとウォッカがそれぞれ9%に対し、バーボンは25%と一番人気の地位にありました。
しかし70年代になると逆転していきます。
74年の首位は16.9%のウォッカ、バーボンは13.9%で2位に下がってしまいます。
3位は13.5%のスコッチで、以下、カナディアン・ウイスキー11.4%、ジン10%、コニャック4%と続いています。
バーボンの比率が大きく下がり、スコッチやカナディアン・ウイスキーもバーボンに迫っていることがわかります。
日本のバーボンの輸入は1970年ごろに始めりました。
しかし当初の輸入量は600から800キロリットルと振るいませんでした。
独特の香りや余り良いイメージがなかったことが背景にあったと考えられます。
1980年代にバーボンの輸入量が急増
日本のバーボン輸入は1980年代中頃が大きな画期となっています。
1983年では輸入量が1千キロリットルほどでしたが、次第に増加し、85年には約2千キロリットル、87年には約6千キロリットルにまで至りました。
86年のバーボン主要銘柄の輸入量伸び率をみると、フォアローゼズ98%増、I・W・ハーパー90%増、ワイルドターキー76%増、アーリータイムズ71%増となっています。
87年のスコッチの輸入量は前年比19.3%増だったのに対し、バーボンは69.8%増にもなりました。
スコッチの需要が伸び悩んでいた一方で、バーボンが人気になっていったわけです。
84年のロサンゼルスオリンピックでアメリカのイメージがよくなっていたこととともに、ほかの人とは違う自分の酒を求める若者のニーズにマッチしたことが背景にあるとみられます。
有力企業がバーボン市場に参画
このようなバーボン人気を受けて、バーボンの輸入販売に参画する企業が増加し、サントリーが中心であった国内市場に変化が生じていきます。
87年には、当時日本で最も良く飲まれていたスコッチ・ホワイトホースを輸入していたジャーディンマセソン社は、バーボンのジムビームの輸入に乗り出しました。
また同年、英国の大手酒類会社ギネス社が日本法人UDGジャパンを設立し、サントリーが所有していたI・W・ハーパーの販売権を取得しました。
日本で最も売れていたI・W・ハーパーを奪われたサントリーは、第2位のアーリータイムズに加え、オールドフォレスターに力を傾注し、トップ奪還を目指しました。
88年にはバーボンに関して出遅れていたニッカが、トップ銘柄のジムビームの輸入販売権を取得することとなりました。
89年には清酒「松竹梅」や焼酎「純」で有名な宝酒造がバーボン輸入に乗り出し、エンシェント・エイジの販売を開始しました。
エンシェント・エイジはそれまでサントリーが独占販売していましたが、エイジ社はサントリーに契約打ち切りを通告し、宝酒造と独占契約を結びました。
そのためサントリーは損害賠償を求め、宝酒造を提訴することとなりました。
その後、宝酒造はエイジ社に出資し経営に参画し、さらには同社を買収し、商標や販売権を確保するにまで至りました。
衣料品へのブランド展開があった1990年代
1994年、キリン・シーグラムは伊藤忠ファッションシステムとライセンス契約を結び、伊藤忠がフォアローゼズブランドの衣料品を製造することを認めました。
パジャマやシャツ、帽子などにブランド展開がなされました。
2000年代以降世界のバーボン市場で日本企業が重要な位置に
キリンビールは2002年にアメリカ・ケンタッキー州の蒸留所を含めてフォアローゼズの事業を買収しました。
そして03年にはアメリカで約45年ぶりにファアローゼズの販売を再開させました。
フォアローゼズは1943年、全米首位のブランドでしたが、カナダのシーグラムが買収し、ヨーロッパへの輸出に力を入れていき、58、59年にはアメリカでの販売が中止されてしまっていました。
キリンビールはアメリカでのファアローゼズの販売を復活させたわけです。
キリンビールは11年にはカナダやポーランドなど、12年には南アフリカやオーストラリアでもフォアローゼズを売り出し、海外販売を拡大させています。
一方、サントリーは14年、アメリカ蒸留酒最大手のビーム社を買収し、世界の蒸留酒メーカーのなかでそれまでの10位から3位となりました。
ビーム社の主力ジムビームやコニャックやテキーラなどの高いブランド力を利用し、蒸留酒販売の拡大を図っています。
ハイボール人気で販売拡大
ハイボールの人気を受けて、サントリースピリッツは、ジムビームを扱う飲食店を2015年末より約5割増して、3万7000店まで増やす見込みを立てています。
ジムビームの国内出荷量は15年の41万ケースから16年の当初は2割増の50万ケース、さらに上方修正して55万ケースを目標とするほど、好調な売れ行きを示しています。
そのうち飲食店に専用ジョッキとともに売りこみ、10万ケース以上に伸ばす計画です。
従来は角瓶を使った角ハイボールがサントリーの主力でしたが、国内ウイスキー原酒が品不足なため、供給に余裕があったジムビームが用いられることとなりました。
従来の角ハイボールに加え、焼き鳥や鉄板焼きの際におすすめと言われるビームハイボールを二枚看板の一つに育てる戦略をとっています。
まとめ
以上、日本でバーボンが受容されていった経緯と日本企業がどう世界展開していったかについてご紹介してきました。
日本ではあまりイメージが良くなく、人気がなかったバーボンでしたが、1980年以降、急速に人気が高まっていきました。
そして日本の大手酒類企業がバーボンを扱うようになり、2000年代以降はアメリカの業者を買収するなどして、世界のバーボン市場でも重要な地位を占めるようになっています。
酒類の需要は税制などによって変化しやすいものですが、今後、バーボンの人気がどうなっていくかは注目されるところです。