焼酎の起源や歴史について解説!もっと知りたい焼酎のこと!
焼酎は最も手に入れやすいお酒の1つで、酒店はもちろんスーパーやコンビニでも販売されています。
クセの無いものからクセの強いものまでたくさんの種類のものが作られているものです。
ただ、当たり前のように存在する焼酎ですが、その歴史については意外と知られていません。
今回はそんな焼酎の起源や歴史について徹底的に解き明かしていきましょう。
意外なその歴史のことを知ればもっと焼酎が好きになるはずです。
日本焼酎の歴史は500年前から始まった
そもそも焼酎は何かと言うと、それは「蒸留酒の一種」ということができます。
では蒸留酒とは何かというと、蒸留という過程を経たお酒です。
蒸留というのはアルコールを含んだ液体を熱し、アルコール度数の高い蒸気を冷やして集めるという過程を指します。
焼酎と対になるものとして清酒(醸造酒)を挙げることができます。
清酒の歴史は古く紀元前から作られていたと予想されていますがそのあたりは諸説あり定かではありません。
ですが醸造酒は口噛み酒(口に材料を含み吐き出すことを繰り返し作るお酒)など原始的な方法で作る事ができるため、相当に起源は古いといえるでしょう。
ただ焼酎を作るための蒸留という技術はそうそう会得できるものではありません。
日本において焼酎が現れたのは何と1534年となります。
1534年、タイ王国に存在したシャム国から琉球を経由して「南蛮酒」がもたらされたという記録があるのです。
この南蛮酒は中国の蒸留方法で作られたとのこと。
タイ産であり中国の蒸留方法によって作られたお酒が日本にもたらされた、というのが文献上の焼酎の起源といえます。
同時代に発生した蒸留酒
面白い事なのですが、蒸留酒は世界的にみても大体同じような年代に生まれています。
中国では12世紀に「焼酒(しょうしゅ)」なる蒸留酒が造られ、ロシアでは14世紀にウォッカが、そしてアイルランドでは15世紀にウイスキーが生まれているのです。
ただその原型となる蒸留の技術自体は紀元前3000年に存在したメソポタミア文明で確認されており、これは当時香水を作るために使われていたとのこと。
最初に蒸留酒を造った人物は紀元前4世紀に活躍した哲学者兼科学者のアリストテレスで、ワインの蒸留の記録が残っています。
その後、8世紀ともなると錬金術と蒸留技術が組み合わさりアラブ諸国を中心にアラックという蒸留酒が広まっていったのです。
ポルトガル人による16世紀日本の記録
1543年、鹿児島の種子島へポルトガル人たちが辿り着きます。
このときのポルトガル人は大きな船に乗ってやってきたとも、数人が漂着したとも言われており定かではありません。
ともかく、このポルトガル人らの手によって種子島に鉄砲が伝えられたというのが通説となっています。
その後、ポルトガル船が来航するようになるのですが、1946年にジョルジ=アルバレスなる商人が日本を訪れることになるのです。
彼は宣教師として有名なフランシスコ・ザビエルの依頼を受けて日本の報告書を書いていました。
そしてその中に「飲み物として、米から造るオラーカ」を日本人が飲んでいたという記録が残されているのです。
ちなみに「オラーカ」とは先述した古くから存在するアラブのお酒「アラック」のポルトガル語の読みだったりします。
鉄砲伝来に諸説あり
少し焼酎の話題から逸れるのですが、歴史の信憑性を測る上でも面白いエピソードに鉄砲伝来があります。
従来はポルトガルから種子島に漂着した人物が鉄砲を日本に売り渡したことが鉄砲伝来の歴史といわれてきたのですが、実は中国から既に入ってきたのでは、という説もあるのです。
当時、倭寇という海賊が東シナ海で活躍していました。
倭という名前はついているものの後期の倭寇はほぼ中国人で構成されており、密貿易を主な収入源としていたとのこと。
そしてポルトガル人を乗せた商船の持ち主が「大峰」「五峰」「王道」などと呼ばれる倭寇の頭目だったのです。
またポルトガル人側の記録ではシャム王国から脱走した3人の人物が種子島に漂着したとありますが、別の記録では「一大船」などと書かれています。
さらにポルトガル人との仲介をした人物の名が「五峰」とのこと。
正確にこのあたりの事情が明記されているわけではありませんが、もしかしたら鉄砲伝来の本当の歴史は良く知られているものよりもっと複雑なものなのかもしれません。
サツマイモの伝来
焼酎において大事な歴史は鉄砲の伝来よりサツマイモの伝来ということができます。
サツマイモは1526年にスペインの軍人、フランシスコ・ピサロが南米大陸を探検した際に見つかりました。
彼は皇帝と会見した際に生け捕りにして身代金を要求し、受け取ってから処刑するという残虐非道な人物だったりします。
ともかくそれから時は経ち、1594年にサツマイモは現在のフィリピンであるルソンへ持ち込まれ、その苗が今度は中国へともたらされます。
そしてこの苗は琉球王国へ渡り、琉球全土で栽培されるようになるのでした。
やがて薩摩藩と琉球王国の中で緊張した交流が続きサツマイモが日本へともたらされるようになります。
本格的に日本で栽培が推奨されるになったきっかけが1732年の享保の大飢饉でしょう。
この飢饉により大量の死者が出たのですが、サツマイモのおかげで餓死者を出さずに済んだ地域がありました。
これを受けて学者の青木昆陽らがサツマイモの栽培が普及するようになったのです。
鹿児島の風土に合ったサツマイモ栽培
サツマイモは育てやすい作物ではありますが、特に鹿児島は栽培に適していました。
元々土壌や気候が米作に適しておらず、むしろサツマイモにぴったりの土地だったのです。
さらに米が採れないことは清酒が造れないことを示してもいました。
そのため、酒造の盛んな海外文化が流入しやすく、かつ米から清酒を作れない土地柄が相まっていも焼酎の製造が盛んになっていったのです。
これも全て南米大陸でスペイン人がサツマイモを発見しなければ起こらなかった現象ですから、感慨深いもの。
歴史は世界史として動いていることを示す一例といえるかもしれません。
軍備増強の産物として生まれたいも焼酎
19世紀はアヘン戦争によって大国であった中国が西欧列強に蹂躙されるという日本にとって危険な時代でした。
その危機をより身近に感じていたのが薩摩藩です。
交流の深い琉球には頻繁に西欧の船が出入りするようになる様を見続けてきました。
そこで1951年に薩摩藩種となった島津斉彬は「集成館事業」を開始します。
この事業は様々な西欧式の産業を起こすというもので、製鉄や造船、食品製造など多岐に渡りました。
そしてその中に雷管銃の製造というものもあったのです。
雷管銃を作るにはエチルアルコールが必要で、これを得るために最初は米焼酎を使っていました。
ただ米焼酎ではコストが高いため、ここでいも焼酎を転用するよう要請したのです。
これに成功した後、いも焼酎はさらに飲用できるよう改良が加えられました。
こうした造られたいも焼酎は薩摩の名産品となり、焼酎を代表する存在となったのです。
凄まじく飲みやすい「いも焼酎 森伊蔵 25度 720ml」
いも焼酎の中でも特段においしいのがこの「森伊蔵」です。
誰かが止めてくれなければ永遠に飲み続けられそうなほどにすっきりとした味わいでとてもおいしいおすすめのお酒となります。
スペインの征服者や享保の大飢饉などに思いを馳せつつ飲んでみて下さい。
まとめ
焼酎の起源や歴史についてみてきました。
蒸留酒の歴史は複雑で明文化されていない部分も多いのですが、なかなか面白いものです。
日本の焼酎だけをみても世界史的な流れが強く影響していることが分かります。
南米大陸の発見と探索、倭寇ないしポルトガル人の到来などがなければ焼酎はまた違った形となっていたでしょう。
そんな歴史の流れを把握して焼酎を眺めるとまた面白いものです。