アイリッシュウイスキーの歴史

ウイスキー

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アイリッシュウイスキーの物語は意外と騒々しいもので、かつてアイリッシュウイスキーは19世紀に世界を牛耳る高みへのぼったものの、やがてすぐにまた恐ろしく後退し、ほとんど消滅しそうになりました。

けれども現代から過去半世紀をかけて消滅寸前であったアイリッシュウイスキーは大復活を成し遂げました。

かつてより蒸留所とブランドの数が少なくなったとはいえ、今日のアイリッシュウイスキーの品質の高さは世界で認められています。



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ウイスキーの起源

アイルランドでの酒の蒸溜の痕跡は12世紀にさかのぼります。

1170年ペンブルック伯爵を屈服させるために、イングランドのヘンリー2世の兵がアイルランドに入りました。

伯はアイルランドのある貴族の要請でアイルランドに侵攻し、王になろうとしていました。

帰還したイングランド兵は、アイルランド人がアクアヴィタとオスケバウを飲んでいるという報告をもたらしました。

アイリッシュウイスキーの熱心な愛好家はこれらを蒸留酒であるウイスキーの起源だと考えますが、実際は詳しいことはわかっていません。

報告書にはその飲み物の特徴は述べられていませんし、それが何から造られているかも書いていません。

ヨーロッパでワインの蒸留が始まっていたことから考えると、それはウイスキーではなくブランデーだった可能性のほうが高いと思われます。



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古代ウイスキー

穀物栽培がすでに普及していたこの頃、イングランド統治下のアイルランド議会が1556年に通した法律はアクアヴィタが日常的に飲まれ、今やアイルランド全域で広く用いられてたことを懸念とともに指摘していましたので、16世紀にはウイスキーらしきものを作っていたと思われます。

この法律の内容は、社会のエリート層には蒸留を許したのですが、その他の者には政府に許可証を申請することを要求していました。

初期のアイリッシュ

初期のアイリッシュウイスキーは、初期のスコッチウイスキーに似ている所が多く、両方とも大量の製麦された大麦からつくられていました。

コクのある蒸留酒であり、事実、初期のアイルランドの蒸留所ではピュアモルトウイスキーを作っていました。

現在では、アイルランドのほとんどのウイスキーメーカーが製麦した大麦と他の穀粒を混ぜたものを使用しています。

例えば、1873年の穀物配合のレシピには、14パーセントの製麦した大麦、40パーセントの製麦しない大麦、16パーセントのオート麦と30パーセントのライ麦と記されています。

スコッチウイスキーとの違い

19世紀半ばまでアイリッシュウイスキーとスコッチウイスキーの蒸留所ではウイスキー製造に銅のポットスチルを利用していました。

そしていくつかの初期のアイルランドの蒸留所はピートを製麦に使っていたために、それがスモーキーな香りを生み出しスコッチウイスキーに似ていると言われたと考えられます。

20世紀初頭までには、アイリッシュウイスキーとスコッチウイスキーは異なる風味の道をたどるようになっていました。

熟慮のすえ、アイルランドの蒸留所はピートの使用をやめました。

そのため、両者とも大麦をベースにした蒸留酒ではあっても、アイリッシュウイスキーはフルーティーでやや甘いウイスキーに進化し、一方でスコッチウイスキーはずっと昔のままスモーキーなウイスキーでありつづけています。

イングランドの支配

1533年にヘンリー8世がローマ教皇と決裂し、翌年イングランド国教会の首長になったとき、その後長くつづくアイルランド問題を彼は自ら作り出してしまいました。

4世紀の間、アイルランドは名目上イングランドの支配下にありましたが、正確にはイングランド王のアイルランドにおける権力は、ローマ教皇ハドリアヌス4世が1155年に与えた勅令に基づいていました。

イングランドとローマ教皇との決裂後、ヘンリー8世とそのカトリックの後継者たちはアイルランド支配権を教皇やアイルランド人に戻すよりも、むしろアイルランドにイングランドへの屈服を強いることを選び、長く残虐な行為が続きました。

イングランドはアイルランドに軍隊を送り、この国の北東部にプロテスタントのイングランド人と、同じくプレスビテリアンのスコットランド人を住まわせました。

アイルランド人を同化させる努力の一環としてイングランド政府は多数の法令を制定し、ウイスキー消費とアイルランド人の飲酒を減らそうとしました。

1580年アイルランド南西部に戒厳令をしいたとき、イングランドは反乱幇助者とアクアヴィタ製造者を処刑すると脅しました。

そしてすこしづつ国王は権力を拡大していき、ビールとウイスキーを出す旅館に課税し、ウイスキー製造者にも課税しました。

それから個人がウイスキーを合法的に製造しようとすると、独占製造者免許を地方政府の役人から買わなければなりませんでした。

さらに原料のモルトにさえ課税されました。

密造

当然不法蒸留がアイルランドで盛んになりました、アイルランド人は値段が高く国会ウイスキーと馬鹿にされた合法ウイスキーを買うのではなく、通称ポチーンと呼ばれた密造ウイスキーを飲んでお金を節約し反抗しました。

酒税が増やされれば増やされるほど、マウンテンデューと呼ばれる密造ウイスキーが不法蒸留所から流れ出しました。

スコットランドと同じくアイルランドでもウイスキーは政治問題を引き起こしました。

はじめのうちはポチーンは非合法に税金を逃れたアイリッシュウイスキーにすぎませんでしたが、ときが経つにつれ、それはウイスキーの偽物、あるいはもっと質の悪いものへと変わっていきました。

モルト代が増えるとポチーンメーカーはより安い原料である砂糖、糖蜜、ジャガイモ、ルバーブ、リンゴなどを利用しだしました。

また、アイルランド人は非合法ウイスキーを隠すのが上手く、マントやコートの下、あるいは女性の下着の中にさえ簡単に隠せるような容器が発明されました。

このことがあってようやくイングランド当局は過酷な規制を課し続けるのはそれほど効果的ではないと気がつきました。

徐々に法律を見直し、税金を下げ、合法ウイスキーの製造を促しました。

政府の失敗

1759年には、合法ウイスキーの評判を高めることを目的に、製麦した大麦、穀粒、ジャガイモと砂糖以外の原料の使用を禁止する法案を成立させています。

今までウイスキーの製造者は製造したウイスキーの量に基づいて課税されていましたが、当然製造者は実際の生産量よりも少ない量に見せかけるという方向にいきました。

そこで政府は1779年に蒸溜器であるスチルの大きさとそれから計算された月ごとの生産量に基づいて課税する法案を打ち立てました。

しかしこの税法改定によってそれまで合法的だった製造者でさえスチルの登録を取り消して地下でこっそり製造したり、あるいは計算上の生産量より多くのウイスキーをつくるためにスチルをやみくもに早く稼働させたりするようになりたした。

こうして不法ウイスキーは急増し、加えて国会ウイスキーの品質も打ち込む事態となり、アイルランド人はますますポチーンを飲むようになっていきました。

アイリッシュウイスキーブーム

アイルランドの人々は、ウイスキーの製造を粗雑で労働集約的な工程から効率の良い機械生産に変えようとさまざまに機械を工夫していきました。

1823年にウイスキー政策が改善してからは、合法のウイスキー製造工場を建て、穀粒を大量に買い付けて機械で大量生産したほうが非合法のポチーンを製造するより大きなお金になりました。

そしてアイリッシュウイスキーは急速に大きな存在になり、スコッチウイスキーよりも勢いがありました。

アイリッシュウイスキーは国外で世界最高級レストランやクラブなどでもおすすめされ、オーストラリアやインド、アメリカでも輸入されました。

まとめ

数十年の間に政府の増税が原因でアイリッシュウイスキーの生産量はぐっと落ち込んでしまいました。

20世紀前半の平均年間生産量は1900年のわずか10分の1程度でした。

しかし20世紀中ごろにはアイルランド政府がアイリッシュウイスキーを国の特産品として後援することに力を入れはじめ、アイリッシュウイスキーは徐々に復活を遂げていきました。

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