教科書には載らない明治日本のブランデー泥酔珍事件簿

ブランデー

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果実酒を蒸留させて作られるブランデー。

ブランデーが作られたのは16世紀から17世紀にかけてで、一説には生産過剰になっていたフランス・コニャック地方のワインをオランダの薬剤師が蒸留したのがはじまりとされます。

日本には1651年にオランダ人によってもたらされ、火酒と訳されました。

明治期の新聞には、ブランデーを飲んだことにまつわる事件が散見されます。

ここではそのような事件についていくつかご紹介したいと思います。



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チップ代わりにもらったブランデーを飲み干した車夫

明治20(1887)年1月21日、京都下京区小泉町の橋本〇吉(27歳)は、飾り職をしていましたが、仕事が暇となり、車引きを始めました。

すぐに乗り手に恵まれ、樫原村まで行った帰り道、観光中のイギリス人を市街まで乗せて帰ったところ、意外に速かったとして車賃のほかに一瓶のブランデーをもらいました。

酒好きの〇吉は午後8時頃、喜んで家に帰り、ブランデーをお猪口に入れて嗜んでいると、空腹にもかかわらず、すっかり一瓶を空けてしまいました。

次第に酔いが回りますが、苦痛に耐えられなくなってきたので、22日午前3時、医者に駆け込み、診察してもらいました。

しかし酒の飲み過ぎによるから来る心臓の麻痺であるとして治療もできず、そのまま朝に亡くなってしまったのでした。



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葬式帰りに呑んで卒倒

明治27(1894)年7月19日、日本橋区蠣殻町の豆腐屋中山〇吉(49歳)は、午後3時ごろより葬式に参加し酒を呑んだ帰り道、さらにブランデーを2杯あおりました。

人力車に乗って、上野の山から神田多町の往来に出たところ、酒の酔いに真夏の暑さが加わり、倒れてしまい、息をしてません。

車夫は驚いて医者に駆け込み、手当をすると、運よく蘇生することができたのでした。

はだかの坊さん

浅草のある寺院の徒弟酉水こと長尾〇重(29歳)は、明治27年8月23日の午後、用向きで麻布の寺院へ出向いた帰り、持戒を忘れて銘酒屋に立ち寄り、卵を肴にブランデーを数杯あおりました。

めちゃめちゃに酔っぱらった同僧は、余りの暑さに堪えかねて店を飛び出すと、千鳥足で愛宕山へ登り、山上のベンチに腰掛けますが、暑さは全然収まりません。

「ああ暑い、灼熱地獄に落ちたようだ」とつぶやきながら、帯を取り、羽織を脱ぎ、着物を脱いで、ふんどし一つとなり、そのまま高いびきで寝入ってしまいました。

目を覚ますと、そばに置いておいた衣類は、帽子から帯、下駄まですべて誰かに持ち去られてしまっています。

目を覚ます前の記憶もなく、場所もわからず、裸体のまま呆然としているところ、巡査が見つけ、芝警察署へ連れて行かれたのでした。

代金をめぐって騒動に

明治28(1895)年5月24日午後5時ごろ、日本橋区中洲町の銘酒屋へ遊びに来た同区北新堀町の船乗り阿蒜〇太郎(25歳)と石黒〇吉(32歳)は、二人の相手になっていたおとよをからかいながらブランデーを吞んでいました。

二人が勘定の際にブランデーの数が一杯違うと言って騒ぎとなったために、居合わせた京橋区本湊町の大工市村〇吉(30歳)が仲裁役を買って出ました。

二人は言い方が気に喰わないと言って、〇吉に食って掛かり、ブランデーの瓶を持って殴りかかると、瓶の欠片が当たったおとよとともに血まみれとなったので、驚いて逃げ出しました。

その後、巡査が来て事情を聴いて、二人の行方を探し出し、ある人が仲裁に入ることによって示談が成立しました。

二人はブランデー一杯1銭5厘のために、治療代8円を支払うはめになったのでした。

酔っぱらって海に落ちる旅行者

明治29(1896)年7月、福島県福島町の清野〇義(27歳)は、国元を出て横浜の友人ところに来て、身の振り方の方向性をつけようとしましたが上手くいかず、9月22日徒歩で東京へ向かいました。

同日夜10時頃、品川へ差しかかったところで、空腹に堪えかねてブランデーを飲み勢いをつけて歩き出します。

夜中2時頃本芝まで来ると、酔いとともに眠気で夢見心地で歩くなか、道を誤り、海岸から海に落ちてしまいます。

水音を聞いて身投げかと心配した、客待ちをしていた人力車夫たちが必死で救い上げ、手当したために、一命をとりとめました。

理由を聞くと、上記の始末なので〇義は警察署に引き渡され、取り調べを受けたのでした。

井戸に身投げする上戸

明治29年9月28日正午過ぎ、赤坂区青山北町の土工職桐谷〇太郎(25歳)は、同町の土木請負業斉藤〇左衛門方へ行き、仕事の話をしているなかで、斉藤はおすすめの酒があると言って、ブランデーと日本酒を加工した酒を持ち出してきます。

酒があまり強くない斉藤は一二杯飲んだだけで、あとは上戸の〇太郎が残らず一升すべて飲んでしまいました。

〇太郎はナマコのように酔って正体をなくし、「こんなに酔っては面目なくて生きていられない」としきりに涙を落とします。

斉藤もそれを持て余し気味に、「まあとにかくひと眠りするのがいい」と言って、奥の一間に寝かせます。

しかし〇太郎は寝ずに、隙を窺って裏口の木戸より這い出し、井戸の中に身を投げてしまいます。

近所の人も手伝ってようやく引き揚げ、半死半生の〇太郎を医者に連れて行きます。

息を吹き返した〇太郎は薬の入った猪口を押し返しながら、「もう飲めねえ沢山だ」と答えたそうな。

勘違いした酔っ払い斬りつける

明治30(1897)年6月15日、深川区富岡門前町の人力車夫樋口〇松(26歳)は、女性客に乗車を勧めて料金を取り決め、自分の車を取りに行って戻ってきたところ、ほかの車夫がその客を車に乗せようとするところに出くわします。

〇松は大いに怒ってその車夫と談判していると、一人の男が突然、二人の間に割り込んで来て、ナイフで〇松に切りかかり、大騒ぎとなりました。

加害者は村松町の栗原〇次(26歳)で、ブランデーを数杯かたむけた後に、二人が争っているところに出くわし、悪い車夫が因縁をつけて料金を取ろうとしていると勘違いしたのです。

負傷させましたが、悪気はないとのことなので示談が成立したのでした。

酔ってブランデーを盗み騒動を起こす水兵

明治33(1900)年5月17日午後6時30分ごろ、横浜山下町加賀町警察署の神田巡査は前田橋通りに立ち番中、外国人が暴行を働いているとの訴えを聞いて、食料売込商尾崎善太郎方に駆けつけました。

事情を聴いてみると、暴行というほどではなく、何人かの水兵がビールを一本ずつ取って逃走しようとしたところを三人分は取り戻したものの、一人はそのまま逃げ出したとのことで、神田巡査は追跡し、彼らを取り押さえます。

彼らはアメリカ軍艦やイギリス帆船の乗組員で、スペイン人オルチス方で飲酒した際にブランデーを一本ずつ盗み、尾崎方へ来て買い取るように言うも拒絶されたので、共謀してビールを盗もうとしたとのことでした。

彼らは一旦盗んだものを返したために罪は問われず、船に引渡されました。

泥酔して大火傷を負う車夫

明治33年11月23日夜、深川区松村町の車夫・藤本〇三郎(49歳)は、いつものように稼ぎを酒に打ち込み、同区西森下町の銘酒屋でブランデーを八合傾けました。

酔いはたちまち全身に廻り、酔った勢いで空の車を引いて往来の真ん中に立ち、「さあ矢でも鉄砲でも持ってこい」と気勢をあげます。

そんな〇三郎を相手にする者は誰もおらず、〇三郎は同区西大工町の人力車停車場まで戻ります。

そのときになると、〇三郎は目がくらみ、歩くこともままならず、車を引きつけて蹴込に座り、提灯を股の間に入れたまま眠り込んでしまいました。

すると、提灯の火が燃えだして股引に移り、毛布にまで延焼し、〇三郎は熱さに堪えられずのたうち回ります。

そんな姿を見つけた巡査が火を消し、医者に連れて行きますが、火傷の箇所は臀部両足にも及ぶ重いものでした。

火酒と訳されるブランデーですが、提灯の火責めにまで合うとは…

まとめ

以上、明治期の新聞におけるブランデーを飲んだことにまつわる事件について、いくつかご紹介してきました。

紙面においては特にブランデーにまつわる事件が目立ちます。

当時はブランデーに悪酔いのイメージが強かったのではないでしょうか。

「酒は飲んでも飲まれるな」とはよく言ったものです。

いつの時代においてもお酒を飲んで失敗してしまう人がいるのは、変わりませんね。

ブランデー