アメリカンスピリット、バーボンウイスキー、その定義、その歴史
バーボンの間違った飲み方はないと言われます。
水で割る、ジンジャーエールで割る、1種類か2種類のリキュールと混ぜて、「リボルバー」などと面白い名前をつけるなど、実に様々な飲み方があります。
バーボンのメーカーはマラキーノチェリーと一緒に出されるのも、ショットグラスにストレートで注がれるのも同じく嬉しいといいます。
バーボンをバーボンにするもの
それは法律です。
バーボンを名乗るためには厳格な基準を満たしていることが必要です。
バーボンのアイデンティティ連邦基準は、バーボンではないものとそうでないものを規定しています。
ウイスキーがバーボンと自称するには、その原料の穀物は、少なくとも51%がトウモロコシでなければなりません(その他の原料は、麦芽大麦やライ麦または小麦などです)原料は、160プルーフ以下で蒸留しなければならず、125プルーフ以下にして樽詰めし、新しい蒸留樽で熟成させなければならなりません。
熟成樽はほとんどがホワイトオークですが、他の種類のオークにすることも可能です。
またバーボンを「ストレートバーボン」と呼ぶには、樽で少なくとも2年間熟成させなければなりません。
熟成が4年未満の場合は、瓶のどこかに熟成した期間を表示しなければなりません。
ですからジム・ビーム・ホワイトラベルのような何も書いていないストレートバーボンを手に取ったら、それは少なくとも4年間は熟成されているということです。
バーボンの名前の由来
ケンタッキー州で蒸留されたウイスキーがどのように「バーボン」と呼ばれるようになったのか、その経緯ははっきりしていませんが、一般的にバーボン郡で作られたウイスキーなので、バーボンと呼ばれるようになったとされています。
また別の説もあります。
フランスのコニャック地方からこの地に移住したタラスコン兄弟が、ルイジアナの賑やかな港町に向けてオハイオ川で地元のウイスキーを輸送し始めた後、ニューオーリンズで進化した名前だといわれます。
兄弟はケンタッキー州の人々がウイスキーを樽に詰めれば、ニューオーリンズの住民がそれを飲んでくれると気がついたのです。
風味がコニャックやブランデーに似ていたので、好まれたのです。
19世紀、ニューオーリンズの歓楽街は今日と同様バーボンストリートでした。
人々は「バーボンストリートで売っているあのウイスキーをくれ」言うようになり、それが最終的に「バーボンウイスキー」となりました。
バーボンウイスキー小史
黎明期
1783年にサミュエルズ家が最初のバーボンを醸造したというのが定説ですが、一家は1840年までは商業生産を始めませんでした。
T・W・サミュエルズがケンタッキー州のサミュエルズデポで蒸留所を建設したのが、一家のバーボン事業の始まりでした。
禁酒法が廃止されてからしばらく後、1943年にビル・サミュエルズ・シニアは、苦味のないバーボンを作りたいと思いたち、そして誕生したのがメーカーズマークです。
その会社は今、息子のビル・サミュエルズ・ジュニアの手に渡り、彼が家族のバーボンの伝統を継承しています。
ケンタッキー州で初めての商業蒸留所は、1783年にエヴァン・ウィリアムズがルイビルのオハイオ川流域に建てた蒸留所です。
いまでもその蒸留酒の名前を残しているバーボンは、今日おすすめのバーボンの一つです。
エライジャ・クレイグはすでに人気のあったトウモロコシのウイスキー、または密造酒を熟成させてバーボンを発明したと言われています。
これには異論もあって、バーボンはある1人の発明ではなく、ウイスキー税を嫌ってペンシルベニア州から移住した人たちのような醸造者によって徐々に進化していったという説もあります。
1789年にバプテスト教会の牧師、エライジャ・クレイグがケンタッキー州ジョージタウンで蒸留所を開設したのは事実です。
ヘブンヒル蒸留所は、バーボンの「発明家」の名にちなんだバーボンを生産しています。
ウイスキーの叛乱
主に西部ペンシルベニア州の農民が、1791年のウイスキー消費税に対して起こした抗議活動です。
ワシントン大統領は反政府勢力に対処するために1万3000人の民兵を招集しましたが、戦闘が起きる前にその部隊は崩壊しました。
この叛乱は当時の連邦法の対象ではなかったケンタッキー州とテネシー州の蒸留所を力づけることになりました。
ビーム家の伝統の始まり
ビーム家は、アメリカのウイスキーの中で最も有名な名前の1つです。
現在では第7世代になっていますが、1795年にその最初の樽「オールドジェイクビームサワー」を販売したのはジェイコブ・ビームでした。
それ以来、デビッド・ビーム、デビッド・M・ビーム、ジェイムズ・ビーム(ジム・ビーム)、T・ジェレマイア・ビーム、ブッカー・ノエ(ブッカーズスモールバッチ)、そして今、フレッド・ノエが家族の技を伝え、今に至っています。
南北戦争
南北戦争はウイスキーの不足を引き起こしました。
戦争のために多くの働き手が招集されただけでなく、主要なウイスキー蒸留地域で多くの戦闘が戦われました。
戦前にカリフォルニアのゴールドラッシュで大当たりし、コロラド州デンバーの大部分を所有していたベンジャミン・ブラントン少佐は、すべてを売って南部連盟戦争債券を購入しました。
これらの債券は、南部の崩壊後に無価値になったので、ブラントンは破産しました。
その後すぐ彼はケンタッキー州で後のスタッグ蒸留所を開設し、ブラントンのバーボンウイスキーを生産しました。
リピー家の蒸留所が開設
ケンタッキー州ローレンスバーグには、もともとリピー家の蒸留所と呼ばれていたものがあり、現在はワイルドターキーヒルとなっています。
1869年にリピー家はこの地方で長いバーボン生産の伝統を始め、1893年の世界博覧会でケンタッキー州を代表する400のバーボンのリストに選ばれました。
蒸留所は現在、ワイルドターキーバーボンの本拠地です。
禁酒法の時代:1920年から1933年
禁酒運動は、米国議会がアルコールの製造と販売を禁止する第18条改正案を可決したときに、ついに望むものを得ました。
成人飲料業界全体が粉砕され、何百もの企業が閉鎖され、多くが地下に潜りました。
バーボン蒸留所の大部分は閉鎖され、その多くは再開しませんでしたが、サミュエルズとビーム家のようにいくつかは、禁酒法の廃止後にカムバックし、バーボン蒸留の技術を復活させました。
政府はその期間中に医療用ウイスキーを生産するためのライセンスを発行していました。
その企業の1つがブラウン・フォルマンで、現在は禁酒法時代の蒸留所の敷地でウッドフォードリザーブバーボンを生産しています。
アメリカのネイティブスピリット
1964年、議会は法律でバーボンを「アメリカのネイティブスピリット」とし、国の公式蒸留酒と宣言しました。
その時にバーボンウイスキーを定義する現在の規制が確立されました。
シングルバレルとスモールバッチ
蒸留所が普通のバーボンを作るときは、熟成させたウイスキーが所蔵されている建物、リックハウスから樽を運び出し、巨大なタンクに一緒に注ぎ込み、それぞれのブランドの風味になるまで混合します。
木の微妙な違い、リックハウスでの熟成場所、年齢などによって、それぞれの樽の味は少しずつ違いますが、何百もブレンドすることで、比較的一定した風味のバーボンを作ることができます。
一方、シングルバレルのバーボンはまったくブレンドされません。
マスターディスティラーがリックハウスから特に美味しい樽を選び、それを濾過し、加水して適切な度数にし、ボトルに詰めます。
それぞれの樽が持つ特質のため、それぞれのボトルが独特の風味を持つようになります。
バーボン愛好家は、こうした小さな違いのためにシングルバレルボトルを好み、それに大金を払うのです。
スモールバッチバーボンは、そのような特定の基準はありません。
シングルバレルは1つの樽からとったものですが、スモールバッチは、いくつかの樽をブレンドしたものです。
小さなバッチと言いますが、いくつの樽と特に決まってはいません。
「スモールバッチ」は品質の指標というよりも、むしろ漠然としたマーケティング用語です。
だからといってスモールバッチバーボンはそれほどおいしくないというわけではありません。
その多くは最高の酒の部類に入ります。
まとめ
バーボンの熟成用の樽は新品のオークでなければならないので、一度使ったら使い回しはできません。
空の樽はスコットランドなどに輸出され、スコッチの熟成に使われることもあるようですが、個人で買うこともできます。
ケンタッキーバレルズという会社がありますが、1つ150ドルから300ドルほどで買えるようです。
運賃もかかるのでもっと値段が上がると思いますが、お金と自宅のスペースがある方は話の種に買ってみてはいかがでしょうかまた樽の蓋だけなら15ドルくらいです。
これなら普通の人にも買えるかもしれません。