日本酒のルーツと発展
日本では縄文時代には狩猟民族的な生活をしていたと言われていますが稲作、米食を基礎とする生活や日本酒につながる酒作りの開始をもって日本の人々の生活は大きく変貌をとげ、その後の現代にまでつながる文化、社会の基礎と方法を決定することになりました。
この変貌は、日本列島に人類が登場して以来、最大のものと言ってもよくまさに農業革命とも呼べます。
日本酒の始まり
それまでの狩猟民族的な文化と異なり、日本では弥生時代に持ち込まれたとされている稲作による農業革命の文化を弥生文化と呼んでいます。
その時代を弥生時代とよび、その頃日本で稲作をはじめた人々を弥生人と呼んでいます。
稲作はこうして日本に伝来し、同時に米を原料とした発酵酒も伝えられたと考えられています。
そして歴史はいよいよ、日本中に力を持つたくさんの王たちがいた巨大古墳時代に引き継がれようとしていた3世紀の後半ごろに、日本人がつくり日本人が飲んでいた日本の酒についての記述が歴史書に出現します。
それは紀元280年代の頃、中国の史家である陳寿によって編纂された日本の歴史書としても有名な魏志・倭人伝 です。
その中で倭人は稲や麻を植え、人々は酒をたしなむ、歌い舞いながら酒を飲むというようなことが記されていました。
日本の酒、ドブロク
日本人なら誰もが知っている女王・卑弥呼の邪馬台国をはじめとする倭の国々で、私たちの先祖は稲を植え、酒を醸し、その酒を飲んでいました。
その酒はまさに稲の国の稲の酒であった米の濁酒でした。
これは現在濁酒と書いてドブロクと読みますが、本来は字のままダクシュ、ニゴリザケと呼ばれていました。
このドブロクこそ、フランス人にとってのワインのように古代よりの私たち日本人の民族の酒でした。
神への供物
米を原料として生まれた稲の酒は、大和朝廷の平城京の酒造府であったミキノツカサで日本酒に近い形態に近づきはじめました。
そして稲と稲の酒とを中心にした日本の神事が生まれました。
現代も政という字をマツリゴトと読むように、古代の政治はマツリゴトであり祖神をまつることでした。
そして神事としての祭事にはハレの飲み物として酒は不可欠で、その場に集まった人々は神とともにそれを頂きました。
宮廷の神事、節会、儀典の饗宴は天皇の神の力、つまり日のミコとしての力を酒の形で分配していたような意味を持っていました。
古代の律令国家の時代、酒は神のものと考えられていました。
日本酒の広がり
律令国家の時代、酒造りを司るもの達は宮内省に属していましたが、その酒造りの実務を担っていたのは大和、河内、摂津の酒造りにたけた家系の農民たちでこれらの人々は酒戸と呼ばれていました。
この酒戸が杜氏の家系の始まりと考えられています。
646年の大化の改新では6歳以上の男女に土地を与える班田収受などと呼ばれる制度が定められましたが、この制度は奈良の平城京から794年の京都の平安京に遷都後、百年を経た頃には乱れに乱れ荘園と呼ばれる王侯貴族たちの私有地が膨れ上がっていきました。
大きな自社や藤原氏を頂点として貴族たちの大荘園では、領主や荘園内の実力者である名主たちが余剰米で酒造りをはじめていました。
当然律令国家の宮中の酒造りの技術も、このような荘園や寺社の酒造りの中に拡散していました。
かつて朝廷を中心に作られていた古代の酒は時代を経過するにつれて人から人へと伝わり、さらに民間へと広がっていきました。
戦国時代の日本酒
戦国時代と呼ばれるこの時代に日本人の民族の酒、日本酒も大きく飛躍し、現代の日本酒につながる醸造技術が確立しました。
日本酒が大都市江戸に広まった伊丹酒の江戸下りに関しての話がありますが、間近に来るべき関ヶ原の合戦に備えて江戸に集まっていた武士たちの飲んでいた酒はほとんどが未熟な技術で作られていた田舎酒でした。
そこへ江戸に降ってきた見事に澄んだ伊丹酒が舞い込みました、そして従来のものより品質の優れた伊丹酒はあっという間に売りきれ、そこから本格的に伊丹酒の江戸下りが始まりました。
時代は江戸の徳川の時代に移り変わり、江戸は急激に大成長しました。
1635年には大名たちの参勤交代が始まり、江戸では酒の需要が年々急増していきました。
そして伊丹酒の盛り上がりを見た池田も江戸下りの酒を作り始め、池田と伊丹は江戸積み酒造地として急速に発展していきました。
世代交代
江戸時代の元禄の頃、最高級の酒の名を独り占めのように持っていたのは白雪、男山、剣菱という伊丹酒でした。
しかし男山と剣菱は江戸後期の受難期に他の地域に移ってしまったので今は伊丹酒ではありませんが。
流通革新、技術革新において江戸後期には完全に伊丹酒を追い抜き打ち負かした灘酒と呼ばれる酒が表しました。
西宮港から江戸の品川港という流通ルートを得た灘酒は、大阪港がマザーポートであった伊丹酒を追い抜き、明治に入って台頭してきた伏見酒と共に大量生産、大量流通、大量消費の体制を確立させ、明治、大正、昭和の三代に渡り日本酒の世界に君臨しました。
しかし、平成という激変の時代に入って大量生産されていた灘酒、伏見酒ですが、その状況は大きく移り変わり、各地に広まった酒ディスカウントストアで価格破壊され、急激に価値を下落させはじめました。
一方昭和50年に、本醸造、純米、吟醸の製造方法の表示の権利が成立したことを機に地方の酒造家が造る地酒はそのステイタスを確立し、それまでの田舎の地酒というイメージを脱却し、現代につながる地方銘酒への道を歩きはじめました。
硬水と軟水
明治に入って日本酒醸造の仕組みが科学的に解明されるようになると、ミネラル分が多く辛口酒に適している硬水とミネラル分が少なく甘口酒に適している軟水との違いなど、水による味の変化があることが人々の間に知れ渡ります。
そこで京都の伏見の酒が急速に台頭してきました。
伏見酒は伏水から出たと言われるほど、伏見の地下には桃山丘陵からの伏流水が豊富に存在しています。
しかしこれは軟水で宮水による硬水で作られていた灘酒に対して伏見の伏流水による軟水作りの挑戦でした。
軟水ではミネラル分が少ないので発酵が穏やかに進行し、甘口酒作りに適しており、男におすすめの灘酒、伏見の女酒という形が確立されていきました。
杜氏の由来
弥生時代の酒の作り方は炊いた米を口で噛み、唾液に含まれるでんぷん分解酵素アミラーゼによりでんぷんを糖化し、それを酵母の力により発酵させる口噛みの酒だったと言われています。
古代では一家の長は女性であり、子育てをはじめ、食料などの管理分配、祭りの日のための酒作りはすべて女性の仕事でした。
そのため男性が女性の家に通うという結婚の形をもっていたと考えられます。
酒を造る人々のことを杜氏と言いますが、この杜氏という言葉も元々主婦や年長の女性、老母などを意味する刀自という言葉からきています。
そして女性のことを女将と書いておかみさんと読んだりしますが、おかみさんとはお噛みさんのことで酒を造る女性を尊敬してこう呼びました。
まとめ
日本神話の中には、ヤマタノオロチとスサノオノミコトが戦う話がありますが、ここでもスサノオノミコトがヤマタノオロチに対して酒精の強い酒を飲ませて、酔わせたところを退治しました。
3世紀の歴史書である魏志倭人伝でも卑弥呼の時代に日本人が酒をのむ話があります。
大和朝廷の時代から日本の酒は日本酒の形を整えはじめ、現代の日本酒にいたります。